目切坂の歴史と由来

目切坂(めきりざか)は現在の代官山駅南西側に位置している、旧山手通りの代官山交番前交差点から西側に下っている坂道になります。別名「〆切坂」「くらやみ坂」ともいいます。

東京府志料には「坂陵〆切坂は渋谷村の境にあり」と記されています。

また大日本名所図会には「上目黒元富士前通り世田谷道を乾位(いぬい)に下る坂をめきり坂という」と記されています。

その昔、臼の切り目を職業としてここに住んでいた石工の伊藤与右衛門からその名が付けられたという説が有力です。石工の伊藤与右衛門は明治10年頃まで坂上に住んでいたといいます。

坂上の脇には庚申碑があり「これより大山道」と刻まれており、さらに昔は鎌倉への道(鎌倉街道)として機能していました。

おそらく当時は林の中を通る細道だったので「くらやみ坂」とも呼ばれていたのでしょう。

 

頂上にある富士講

目切坂の途中には「富士講」が残した元富士跡があります。

「富士講」とは、江戸時代に富士山を対象とした民間信仰が広まって、人々が集まってつくった講です。その人々は身近なところに小型の富士をつくって、これに登って山頂の石祠を詠みました。

1812年に目切坂の富士講はつくられましたが高さは12メートルもあったといいます。

当時は気軽に富士山を眺望できる観光スポットとして注目されていたのでしょう。現在は国土交通省により富士山への良好な眺望を得られる富士見坂として「関東の富士見100景」に選定されています。
 

目切坂の近くにある坂

目切坂界隈にある有名な坂をご紹介します。

《別所坂》
JR恵比寿駅からS字を描きながら中目黒方面へ行くことができる坂道です。かなりの勾配で車も通ることはできません。

かつてはこの坂上から見事な富士山が見えたことから、富士山を模倣した山(富士講)が築かれ、目切坂の元富士と並んで新富士といわれました。

現在は元富士・新富士ともに原型は残っていません。

 

《上村坂》
目黒川に向かって南へ下る急な坂道です。坂名はそこに上村男爵邸があったことからこの名が付きました。

上村彦之は薩摩藩士の家に生まれ、戊辰戦争、日清戦争、日露戦争で活躍した海軍のひとりです。日露戦争では第二艦隊司令長官でした。

 

《茶屋坂》
中目黒2丁目辺りの境、かつての「茶屋坂隧道(ちゃやざかずいどう)」のトンネルの上から東へ下る坂道です。

今では住宅街を通る茶屋坂は、有名な落語である「目黒のサンマ」の由来となった茶屋がありました。茶屋の爺がサンマを焼いて将軍様に出したところ、とても気に入られたという話があります。