東京の基盤「武蔵野台地」とは?

なぜ東京には坂が多いのでしょうか?

東京で生活をしたことがある人、歴史や地理・地形が好きな人、坂の魅力に取り憑かれたことがある人は一度は考えたことがあるかもしれません。

東京の大部分は「武蔵野台地」で形成されています。武蔵野という地名は、万葉の時代から詠によく登場しており、その描写を観察すると広漠とした草原であり、郷愁の袖をしぼる原野であったことがわかります。

武蔵野台地は荒川と多摩川の間のエリアになりますが、その歴史は古く、今から2万年前には現在の地形になったと考えられています。

そして武蔵野には”三大池”といわれる池があります。「石神井池」「善福寺池」「井の頭池」は湧水を生み出し、流れ出た水は台地を削りながら、東方向(東京駅方面)へと流れて、谷と平地と川が混在する現在の武蔵野台地が作られたといわれています。

江戸時代に入ると約200年という歳月をかけて、江戸幕府は水路を整えていきました。沢山の”川”や”堀”、”橋”や”見附(城門)”が作られていく中で、自ずと地名も決まっていきます。

「水道橋」「飯田橋」「数寄屋橋」「二重橋」など”橋”がつく地名が多く、「四谷」「市ヶ谷」「世田谷」「渋谷」など”谷”がつく地名も多いのもそのためです。

当時は現在の日比谷くらいまで入り江で、日本橋から京橋・銀座・築地は洲をなしていたと言われています。一方で駿河台あたりの高台を切り崩して、埋め立てを繰り返しながら、現在の東京が出来上がりました。

 

東京に流れる川の記憶

東京駅の海抜は7.2メートルに対して、荻窪=46.7メートル・小金井=69.4メートル・八王子=110.1メートルという高さになります。ここまで高低差があるとは普通に生活しているだけでは分からないでしょう。

川は高い所から低い所へと流れ、長い年月をかけて現在のかたちになりました。江戸を流れる川の流れは大きく2つあったと推測されます。

●四谷・牛込両台地の間にある長延寺谷から出た流れ

●牛込・小石川両台地間の低地の小石川の流れ

そしてこの2つの流れが合流して、今の小石川後楽園から神田三崎町へ流れ、その後南方の追手門の堀を通り、日比谷入り江に注いでいたといわれています。

 

北方面では本郷台地と上野谷中台地の間に存在する音無川が不忍池をつくり、その水はさらに東方面の低地にあった千足池へつらなり、最後は隅田川へ注いでいました。

南方面では四谷鮫が橋の谷水が赤坂御所内を通って、現在の溜池山王に大きな溜池をつくっていました。

このように長い歳月をかけて川が台地を削り、現在の武蔵野台地、そして東京をつくっていったと考えられます。

 

東京坂道の魅力

当サイトでは、現存する東京坂道がどのようにつくられ、どのような風景を見つづけ、何を遺し、何を伝えているのかを分析してお伝えしています。

東京には現在23区内だけでも800以上の坂があります。そのひとつひとつには歴史があり、その名前を付けられた理由があります。その多くが江戸時代につくられ多くの武士や町人達が登り下りを繰り返していました。

その坂道の追憶を消すことなく、後世へ語り続けていって欲しいという思いから執筆しました。