三分坂の歴史と由来
三分坂(さんぶんざか)は現在のTBSの裏手にある非常に急な坂です。
赤坂5丁目と7丁目の境にあたり、昔は聖パウロ学園がここにありましたが1972年八王子に移転しました。荷車が上に上がれないほどの急坂で、現在でもかなりの傾斜ですが、これでも1961年頃に改修して傾斜を緩めて延長しています。
坂名の由来ですが「新選東京名所図会」(小川尚栄堂)によると「三分坂は赤坂台町報士寺前の坂をいふ、この坂いと急なれば、昔はここに至りて車力貸を三分増したりとて、その名を伝えたり。」とあります。
つまり、坂を通るには車賃を銀三分(現在の200円程度)上乗せして払わないといけませんでした。
これが由来となっております。ちなみに時間の3分が由来になっているわけではありません。
また坂の下は昔沼地になっていて、その沼を渡るための車賃が一分(現在の70円程度)、坂を登るための車賃が三分(現在の200円程度)必要だったという説もあります。
静かに佇む報士寺
三分坂のS字クランクの中腹あたりに静かな佇まいのお寺があります。
この寺は報士寺といって、安永9年に赤坂新寺町から移ってきた寺で、坂下通りを通称報士寺前といったそうです。現在でも見事な練り塀を眺めることができます。
寺内の墓地には江戸時代の怪力力士「雷電為右右衛門(らいでんためえもん)」の墓があります。雷電為右右衛門は254勝10敗の記録を持つ名力士でした。
江戸時代、この一帯は広島藩浅野家松平安芸守の屋敷がありました。
三分坂の近くにある坂
三分坂界隈にある有名な坂をご紹介します。
《稲荷坂》
赤坂7丁目を円通寺坂上の道路から南へとくだる坂です。旧赤坂台町から新坂町へ至る坂道で、かつてはこの坂の北側にあった円通院の境内稲荷社が坂道の由来となっています。
江戸時代、坂下には御掃除の者という御家人達の組屋敷があったので、掃除坂の別名をもっていました。
《円通寺坂》
赤坂4丁目と5丁目の境に位置する円通寺の前を東に下るので円通寺坂と呼ばれています。
「新選東京名所図会」によると「赤坂一木町と丹後町の間を黒鋤谷へ下る坂あり円通寺坂とよぶ」とあります。この一帯は終戦後には次第に植民地的な雰囲気になり、ボウリング場やサウナ風呂、バーやクラブのネオンが夜を灯していました。
《薬研坂》
赤坂4丁目にあり別名「何右衛門坂」とも言います。
「新選東京名所図会」によると「薬研坂は旧松平左兵衛督の屋敷前より台町の方にいく坂道をいう。今は凸凹してないが昔は薬研のように中央が凹んでいた」とあります。
何右衛門という人物は、もとは赤坂の火消しだったそうで、喧嘩で頭を殴られて以来、気が狂ったようにこの坂を彷徨いていたという話があります。