梯子坂の歴史と由来
梯子坂(はしござか)新宿区新宿7丁目に位置する閑静な住宅街の中に潜む、非常に細い石段です。久左衛門坂の裏の坂でもあります。
曹洞宗永福寺の墓地を北側に上がっていく階段道で、探すのも困難なほどの坂道であり、何故この石段が江戸から続くなのある坂道になったのかと不思議に思う人も少なくないと思います。
豊多藦郡市によれば「梯子坂は久左衛門坂北方の裏道にある。東へ上がり十間ばかり、坂道急にしてあたかも梯子を登るが如し。故にこの名が付く。」とあります。
まるで梯子を登るような坂道なので傾斜がきつく、今では石段になっていますが、江戸の頃は登るのに苦労したことでしょう。
坂の上からは新宿周辺の高層ビルが見えますが、周囲は閑静な住宅になっています。
大久保の由来
梯子坂があるエリアは新宿区の中でも坂道が多く、大久保通りなどの大きな道路を一つ入れば、物静かな住宅街が広がっています。
坂道が多いのは、その地形が凹んでいることから「大きく窪んだ=大窪」とよばれ、それがさらに大久保へと改められたという説があります。
もう一つの説としては、永福寺の旧時の山号が大窪山(だいわさん)といっていたことから、大久保へと変化したというのがあります。
梯子坂の近くにある坂
梯子坂界隈にある有名な坂をご紹介します。
《久左衛門坂》
曹洞宗永福寺の門前をカーブして西へ下る坂道です。
豊多藦郡市によれば「久左衛門坂は東大久保天神前の市谷に通じる往還鹿島横町道にある。坂道が屈折して馬車は通行困難である。大久保の草創百姓島田久左衛門の居住していた所である。」とあります。
現在は廃線になっていますが、久左衛門坂と天神社(西向天神)の間に都電の専用道路がありました。
《山吹坂》
梯子坂と同じく階段になっている坂道で、天神社(西向天神)の境内に西方から登る参道となっています。
江戸城を築いた太田道灌ゆかりの娘である紅皿(べにざら)の墓とされる「紅皿の碑」があることから名付けられたといわれます。
紅皿は太田道灌に山吹の枝を捧げたという伝説が由来となっています。
《椎木坂》
かつて椎木坂には尾張藩の戸山屋敷内に椎の大木があり、この坂道を覆っていたため、椎木坂の名がついたといわれています。
また、江戸時時代はこの辺りの低地を「砂利場」とよんでいましたが、東西に上る二つの坂があったことから向坂とも呼ばれました。
旧尾張屋敷側を削って東西に通じる大久保通りができたため、椎の大木があったところも道敷になりました。