道玄坂の歴史と由来

渋谷区にある坂でも一番有名な坂のひとつで昔は「道源坂」「道元坂」とも書かれました。現在の渋谷109から池尻大橋方面へ上がる坂道です。

今では東京屈指の繁華街となった渋谷ですが、江戸時代までは非常にもの寂しい野中の坂道でした。渋谷駅を挟んで反対側に位置する宮益坂(富士見坂)の方が厚木道の脇道として茶店が軒を連ね賑わっていたといいます。

坂名の由来ですが大きく2つの説があり、ひとつは「道玄」と名乗る山賊がいた説、もうひとつが「道玄庵」という建物があったという説です。

江戸名所図会によれば「大和田氏道玄は和田義盛の末裔である。1213年鎌倉で起こした反乱で滅ぼされた残党がここ道玄坂の窟中に隠れ住み山賊業をしていた。よって道玄坂という」とありました。

もう一説は道玄は僧侶であり、道玄寺という寺院がこの辺りにあったというものです。

いずれにしても道玄という人物の名前に起因することがわかります。

 

昔の道玄坂

江戸時代までの道玄坂は田園風景だったようで江戸名所図会を紐解いていくと以下のような記載があります。

道玄坂は富士見坂(現在の宮益坂)を下り、耕地を隔てて向かい、西へ登る坂である。この坂を登って三丁程行けば岐路がある。真っ直ぐの道は大山道で三軒茶屋より登戸の渡または二子の渡へ通じる。

岐路を右へ行けば駒場野の御用屋敷の前を通って、北沢淡島への道となる。世田谷への道である。

道玄坂にお店が立ち並び始めたのは明治後期からのことでした。その要因としては厚木街道の目黒や世田谷に兵営ができて、軍人が道玄坂を往来するようになったからでした。

しかし玉川電鉄が開通するまでは田園が続き、坂をかなり上がったところに一軒の蕎麦屋があるだけだったようです。

渋谷は東急東横線の開通などで急激に発展を始めましたが、第2時世界大戦の空襲によってその繁栄は廃墟となってしまいました。現在の渋谷道玄坂の姿は、その廃墟から、過去の面影と絶縁して生まれたものです。

戦後の道玄坂には恋文横丁と呼ばれる占領軍治下の独特な風俗も誕生しました。

 

道玄坂の近くにある坂

道玄坂界隈にある有名な坂をご紹介します。

《宮益坂》
古名「富士見坂」ともいいます。その名の通り晴れた日には富士山が望める坂だったのでしょう。

江戸名所図会によれば、相模街道の立場として茶店・酒亭があり、小川にかかる橋も富士見橋といったようです。現在の風景とは程遠い、情緒あふれる坂だったことでしょう。

 

《南平坂》
現在の国道246号にある南平坂はかつては上流階級の人々が住む極めて静かな住宅地帯であったようです。

江戸時代の中豊沢村という幕府の天領は、猿楽塚、神泉谷、鉢山、大山、平代、宇田川のうちの平代をもとに南平台という町名を付けたとされています。