潮見坂の歴史と由来

潮見坂(しおみざか)は外務省と財務省(旧:大蔵省)の間を走る坂道で坂上からは海を見下ろすことができたことからこの名前が付いています。

坂下にある日比谷公園あたりは、江戸時代の初期頃まで汐入りの洲であり多くの漁師が魚を獲っていました。

ちなみに日比谷という地名ですが、漁師が海中に「ヒビ」と言われる”枝の付いた竹”を並べて魚が入るのを待っていたことに由来します。現在でも海苔をとるのに「ヒビ」は使われています。

日比谷入り江は霞ヶ関〜大手町付近まで入り込んでいたといわれています。

潮見坂は「霞ヶ関坂」と「三年坂」のちょうど間に並走するように流れている坂道です。
 

霞ヶ関坂

潮見坂より1本霞ヶ関側に位置するのが「霞ヶ関坂」です。現在では総務省や観光省が立ち並ぶ官庁街になっています。

江戸時代までは、奥州街道が南から渋谷、青山、赤坂、貝塚を経て江戸城の北側に続いていたので、霞ヶ関には関所が置かれていました。当時は景勝の関所として有名だったそうです。

関所からは雲霞(うんか)を隔てた遠方を望むことができるということに由来していて、古歌にも”春の霞”などといった言葉が多くみられます。

江戸時代後期には大名屋敷が軒を連ね、情緒あふれる霞ヶ関は名ばかりとなってしまいました。

 

三年坂

潮見坂に並走しているもう1本の坂が三年坂です。別名「淡路坂」「鶯坂」ともいいます。

文部省と財務省の間を通る坂道で「昔この坂にて転ぶときは3年以内に死す」という俗説があるおどろおどろしい坂でもあります。

昔の坂路はくねくねしながら谷間へ下っていたらしく、サザエの殻にも例えられたといわれています。また鶯が多かったことから「鶯坂」の別称も持っていました。

 

新坂

現在の山王グランドビルの脇が入り口になっている急な坂道です。永田町2丁目あたりのメキシコ大使館の間を「外堀通り」へ下る坂道になっています。

その名の通り新しくできた坂という意からその名前が付けられていますが、坂ができたのは1867年〜1884年あたりといわれています。

坂上には日比谷高校や官庁・国会議事堂があり、登校を急ぐ学生などがカバンを抱えて駆け上がる風景から地元の人から「遅刻坂」とも呼ばれていました。

ちなみに日比谷高校は、明治11年本郷元町に開設された東京府立第一中学が元になっていて、それが第二中学と合併され内幸町へ移り、さらに築地〜日比谷へ転々とし、昭和4年に現在の場所になりました。

昭和23年から男女共学が実施されています。