紀尾井坂の歴史と由来
紀尾井坂(さんぶんざか)は現在の四谷にある上智大学とホテルニューオータニの脇を通る坂道です。
坂名の由来は、紀伊藩・尾張藩・井伊藩の屋敷に囲まれていたことが由来で、赤坂プリンスホテル(2011年廃業)が紀伊藩の屋敷跡、上智大学が尾張藩の屋敷跡、ホテルニューオータニが紀伊藩の屋敷跡でした。それぞれの頭文字をとって紀尾井坂といい、町名にもなっています。
坂上にはかつて食違見附(くいちがいみつけ)があり、江戸城外壕の渡道を防衛上ジグザグにつくって、その辺りに番所を置いたために付けられた名前でした。ちょうど四谷見附と赤坂見附の中間あたりに位置します。確かに紀尾井坂は大きなS字クランクになっています。
紀尾井坂は食違を通り、東の千代田区清水谷へ下る坂道でした。なので別名「清水坂」ともよばれています。
紀尾井坂の変
1873年、皇城が火事の被害に遭った時、天皇・皇后が一時的に坂上の赤坂離宮(旧紀州藩邸)に移住されたことがありました。
よって、紀尾井坂は麹町方面からやってくる高官たちの馬車道となりましたが、この坂路は石垣や木立の続いていたので刺客にとって絶好な襲撃場となってしまったのです。
1874年に入ると岩倉具視が食違見附で襲われましたが危うく難を逃れ、1878月この坂下で大久保利通が6人の暗殺者に襲われました。この事件を「紀尾井坂の変」といいます。
紀尾井坂の近くにある坂
紀尾井坂界隈にある有名な坂をご紹介します。
《清水谷坂》
坂底は清水谷といい紀尾井坂へと繋がっている坂で、出版社である文藝春秋があることでも有名です。
大久保利通はこの坂を下り、紀尾井坂へ登ろうとするところで6人の刺客によって暗殺されました。赤坂方面から半蔵門へ抜ける道として多くの車が通っています。
《諏訪坂》
別名「達磨坂(だるまざか)」といい、清水谷坂上の紀尾井町と平河町の間を南下する坂道です。
現在の都道府県会館のところに「スワ」という旗本屋敷があったことから命名されたようです。また赤坂プリンスホテル(2011年廃業)はかつて紀州藩邸であり、その表門にはダルマに似た木目があったために「達磨坂(だるまざか)」ともよばれました。
《三宅坂》
国道246号の信号にその名が刻まれているので知ってる方も多いのではないでしょうか。
三宅坂は国立劇場あたりから桜田壕に沿って下る坂道で、田原藩主三宅備前守の屋敷があったことからこの名が付けられました。明治時代、三宅坂上には陸軍省や参謀本部が置かれ、まさに帝国陸軍の心臓部でありました。